目次
はじめに
学術出版の世界では、Multidisciplinary Digital Publishing Institute(MDPI)という出版社をめぐる議論が活発に続いています。1996年に設立されたMDPIは、現在300以上のオープンアクセスジャーナルを出版する大手出版社へと成長しましたが、その評価は研究者コミュニティ内で大きく分かれています(Oviedo-García, 2021)。一方では「ハゲタカ出版社(predatory publisher)」と批判され、他方では「革新的なオープンアクセス出版の先駆者」と評価されるなど、対照的な見解が存在します。本稿では、MDPIの特徴、そのビジネスモデル、肯定的・否定的両側面からの評価を検討し、学術出版の将来に関する広範な議論の中にMDPIを位置づけることを試みます。
MDPIの概要と成長
MDPIは1996年にスイスのバーゼルで設立され、当初は分子多様性保存国際機関(Molecular Diversity Preservation International)としてスタートしました。その後、Multidisciplinary Digital Publishing Instituteとして再定義され、オープンアクセス出版に特化した出版社として急速に成長してきました(Crosetto, 2021)。
Boshoff & Akanmu(2018)によれば、MDPIの成長率は驚異的であり、2012年から2017年の間に出版論文数が10倍以上増加しました。さらに最近の統計では、2020年に約76,000本の論文を出版し、2021年には160,000本を超える規模に拡大したとされています(Oviedo-García, 2021)。この急速な成長自体が、肯定的にも否定的にも解釈される要因となっています。
MDPIの特徴とビジネスモデル
MDPIのビジネスモデルと運営には、以下のような特徴があります:
- 完全オープンアクセスモデル: すべての論文はCC BY(クリエイティブ・コモンズ表示)ライセンスの下で公開され、読者は無料でアクセス可能です(MDPI, 2022)。
- Article Processing Charge (APC)依存型: 出版コストは著者(または著者の所属機関)が支払う掲載料で賄われます。Khoo(2019)によれば、MDPIのAPCは分野やジャーナルによって異なりますが、平均して1,000〜2,000スイスフラン(約1,100〜2,200米ドル)の範囲です。
- 迅速な査読プロセス: MDPIは「迅速な査読」を強みとしており、多くの場合、投稿から最初の査読結果までの期間が15日前後と短いことを特徴としています(Crosetto, 2021)。
- 特集号(Special Issue)の多用: MDPIは特集号の企画を積極的に推進しており、ゲストエディターを招聘して特定のテーマに関する論文を集めることに力を入れています(Dobusch & Heimstädt, 2019)。
- インパクトファクターの向上: 多くのMDPIジャーナルがWeb of Scienceに収録され、インパクトファクターを獲得しています。Crosetto(2021)によれば、2020年時点で約70%のMDPIジャーナルがインパクトファクターを持っています。
肯定的評価:MDPIの強み
1. オープンアクセスの促進
MDPIは完全オープンアクセスモデルを採用し、学術研究の成果を広く一般に公開することで、研究アクセシビリティの向上に貢献しています。Tennant et al.(2016)の研究によれば、オープンアクセス論文は従来の購読型モデルの論文と比較して、引用数が18%増加するという結果が示されています。
2. 効率的な出版プロセス
MDPIの迅速な査読・出版プロセスは、学術コミュニケーションの効率化という観点から評価されています。Björk & Solomon(2013)の調査によれば、伝統的な学術誌の査読プロセスは平均して数カ月から1年以上かかることもあるのに対し、MDPIの査読プロセスは平均して数週間で完了します。
Crosetto(2021)は自身の経験から、「MDPIの査読は確かに迅速だが、その質は他の主要出版社の査読と比較しても遜色ない」と報告しています。
3. 新興分野と学際的研究の受け皿
MDPIは新興分野や学際的研究のための出版の場を提供しています。例えば、「Sustainability」や「Energies」などのジャーナルは、持続可能性や再生可能エネルギーといった現代的テーマに焦点を当てており、これらの分野の研究発表の重要なプラットフォームとなっています(Wang et al., 2021)。
4. 透明性への取り組み
MDPIは出版ポリシーの透明性向上に努めており、査読ポリシー、著者ガイドライン、料金体系などを明確に公開しています。また、Open Access Scholarly Publishers Association(OASPA)やCommittee on Publication Ethics(COPE)などの国際的な組織にも加盟しています(MDPI, 2022)。
McKiernan et al.(2016)は、このような透明性が学術出版の信頼性向上に貢献していると評価しています。
批判的見解:MDPIに対する懸念
1. 査読の質に対する疑問
MDPIの迅速な査読プロセスについては、その質を疑問視する声も存在します。Bohannon(2013)の「スティング論文」実験では、明らかな欠陥のある偽の論文がいくつかのオープンアクセスジャーナルに受理されたことが示されましたが、この問題はMDPIに限らず、学術出版全体の課題として指摘されています。
Siler et al.(2015)の研究では、オープンアクセスジャーナル全般における査読の質のばらつきが指摘されていますが、MDPIに特化した系統的な調査は限られています。
2. 大量の特集号と勧誘メール
MDPIは特集号の企画と研究者への勧誘メールを積極的に行っていることが批判の対象となっています。Dobusch & Heimstädt(2019)は、MDPIからの頻繁な勧誘メールが「スパム」として認識されることがあると報告しています。
Oviedo-García(2021)は、特集号の過剰な企画が査読の質の低下や「論文工場(paper mill)」的な性質を助長する可能性を指摘しています。
3. ビジネスモデルへの懸念
MDPIのビジネスモデルは、論文出版数の増加が直接的に収益増加につながる構造であるため、質よりも量を優先するインセンティブが存在する可能性が指摘されています(Shen & Björk, 2015)。
Grudniewicz et al.(2019)は、APCに依存するビジネスモデルそのものが「ハゲタカ的」になるリスクを指摘していますが、これはMDPI特有の問題ではなく、オープンアクセス出版全般に当てはまる構造的課題です。
4. Beallのリストへの掲載と撤回の経緯
2014年、図書館学者Jeffrey Beallは、MDPIを「ハゲタカ出版社リスト」に追加しましたが、2015年にはこのリストからMDPIを削除しています(Beall, 2017)。この一連の出来事は、MDPIの評価が流動的であり、またハゲタカ出版の定義そのものが曖昧であることを示唆しています。
Teixeira da Silva & Tsigaris(2018)は、Beallのリストの主観性と限界について指摘し、単一の個人による判断に基づくブラックリスト方式の問題点を論じています。
研究者コミュニティの反応と対応
MDPIに対する研究者コミュニティの反応は多様です:
- 機関レベルの対応: 一部の大学や研究機関は、MDPIジャーナルへの投稿を公式に控えるよう勧告しています。例えば、ノルウェーの複数の大学はMDPIジャーナルへの投稿を推奨しないという立場を表明しました(Oviedo-García, 2021)。
- 分野による差異: Shen(2020)の研究によれば、MDPIジャーナルの評価は分野によって大きく異なります。特に、環境科学や持続可能性研究の分野では比較的評価が高い傾向があります。
- 個人研究者の判断: Xia et al.(2015)によると、研究者はジャーナル選択において、インパクトファクター、査読の質、出版スピード、名声など複数の要素を考慮しており、MDPIに対する評価もこれらの要素に基づいて個人差があります。
- オープンピアレビューの取り組み: MDPIは一部のジャーナルでオープンピアレビューシステムを試験的に導入しており、査読の透明性向上を図っています(MDPI, 2022)。Ross-Hellauer(2017)は、このようなオープンピアレビューが学術出版の信頼性向上に貢献する可能性を指摘しています。
MDPIの位置づけ:グレーゾーンか革新か
MDPIを「ハゲタカ」か「正当」かの二分法で評価することは困難です。むしろ、以下のような視点からMDPIを捉えることが重要でしょう:
1. オープンアクセス出版の変遷の中での位置づけ
Laakso et al.(2021)は、オープンアクセス出版の歴史的発展の中でMDPIを含む新興出版社の役割を分析し、これらが学術コミュニケーションの変革を促す「破壊的イノベーター」として機能している側面を指摘しています。
2. 「ハゲタカ出版」の定義の曖昧さ
Grudniewicz et al.(2019)は「ハゲタカジャーナル」の定義について国際的な合意形成を試みましたが、その境界線は依然として曖昧です。MDPIはこの境界線上に位置し、「グレーゾーン」として捉えられることが多いようです。
3. ジャーナルごとの質のばらつき
Crosetto(2021)が指摘するように、MDPIの300以上のジャーナル間では質にばらつきがあり、一括して評価することは適切ではありません。分野やジャーナルごとの個別評価が必要です。
4. 学術出版の構造的問題の反映
Kurt(2018)の研究によれば、MDPIのような出版社の台頭は、「出版か消滅か(publish or perish)」の圧力やインパクトファクター重視の研究評価システムなど、学術界の構造的問題を反映しています。
研究者・機関のための実践的考察
MDPIジャーナルへの投稿を検討する研究者や機関にとって、以下のような点が考慮に値します:
1. ジャーナル選択の総合的評価
Shaghaei et al.(2018)は、研究者がジャーナル選択において複数の基準(学術的厳格さ、査読の質、出版スピード、可視性、インパクトファクターなど)を総合的に評価することの重要性を強調しています。
2. ジャーナル固有の評価
MDPIの全ジャーナルを一括評価するのではなく、個別のジャーナルの評判、編集委員会の構成、出版された論文の質などを個別に評価することが推奨されます(Crosetto, 2021)。
3. 情報リテラシーの向上
Eriksson & Helgesson(2017)は、研究者、特に若手研究者に対する出版倫理と情報リテラシー教育の重要性を強調しています。
4. 機関レベルでの方針策定
Siler et al.(2020)は、大学や研究機関が明確なジャーナル評価基準と出版ポリシーを策定することの重要性を指摘しています。これにより、研究者個人の判断負担を軽減できる可能性があります。
将来展望:学術出版のあり方とMDPIの位置づけ
MDPIをめぐる議論は、より広範な学術出版の未来に関する以下のような問いを投げかけています:
1. オープンアクセスの持続可能なモデル
Schimmer et al.(2015)は、APCに依存しない持続可能なオープンアクセスモデルの可能性を探り、「購読料からAPCへの大規模な転換」(OA2020イニシアチブ)を提唱しています。
2. 研究評価システムの改革
Hicks et al.(2015)のLeiden Manifestoは、単純な計量指標に依存しない多元的な研究評価の重要性を強調しています。このような評価システムの改革がMDPIのようなジャーナルへの批判的評価にも影響を与える可能性があります。
3. コミュニティ主導の出版モデル
Tennant et al.(2019)は、商業出版社に依存しない、研究者コミュニティ主導の出版モデルの可能性を探っています。これには学会誌やプレプリントサーバーの強化なども含まれます。
4. 品質保証メカニズムの進化
Ross-Hellauer & Görögh(2019)は、伝統的な査読を超えた、より透明で効率的な品質保証メカニズムの必要性を論じています。MDPIのようなオープンアクセス出版社がこうした革新に寄与する可能性も考えられます。
結論
MDPI社のジャーナルをめぐる議論は、単に一出版社の評価にとどまらず、現代の学術コミュニケーションシステム全体が直面している複雑な課題を映し出しています。「ハゲタカ」か「革新者」かという二項対立を超えて、MDPIの事例は学術出版の質保証、ビジネスモデル、研究評価システム、アクセシビリティなど、多面的な課題に関する重要な議論の機会を提供しています。
研究者にとっては、出版先としてのMDPIの評価は分野やジャーナルごとに慎重に行う必要があるでしょう。同時に、学術コミュニティ全体としては、MDPIの事例を通じて浮き彫りになった構造的課題に対処し、より持続可能で公平な学術コミュニケーションシステムの構築に向けた取り組みを進めていくことが重要です。
最終的に、MDPIに対する評価は固定化されるべきではなく、同社の進化と学術出版システム全体の変化の中で、継続的に再評価されるべきものと言えるでしょう。
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