学歴ロンダリングという言葉について思うこと
学歴ロンダリング(がくれきロンダリング)とは、日本で大学院進学の際に自身の出身大学よりも更に上のレベル(学歴)の大学院に進学することを指すインターネットスラングである。別名は大学院ロンダリングであり、ネガティブな意味あいで使われることが多い。(ニコニコ大百科)
学歴ロンダリングという言葉はネットのスラングだそうで、たしかに実社会でこんな言葉を口にする人に出会ったことがありません。研究者の場合、研究者になるために少しでも良いトレーニングを受けられる大学院を目指すのは当然のことで、学歴ロンダリングという概念はそもそも存在しえないと思います。
学歴ロンダリングという言葉が存在する前提となっているのは、合格した大学名でその人に対する評価を固定しようという発想だと思いますが、その発想の裏にあるのは、偏差値至上主義であり、偏差値によってその人の頭の良し悪しを固定的に評価しようとしているのだと思います。さらにその考え方の前提になっているのは、頭の良し悪しで人間の価値が決まるという思い込みでしょう。長く生きてきて思うのは、頭が良かろうが悪かろうが、生きていく上ではどうでもいいのではないかということです。何かに熱中できる素質、やりたいことをやる意思の力、生きていることに幸せを感じられる能力といったもののほうがずっと役に立つ。
頭がいいほうがいいに決まっているはずの研究者の世界においても、最終的に研究者として生き残るのに必要なのは大学の入試時点での点数では全くないわけです。少なくとも、実力・実績が全ての業界においては、過去の大学入試の得点は社会人になってからどう評価されるかとは直接関係ありません。
パレートの法則が真理だとすれば、世の中のほとんどの人は頭が悪くても、仕事ができなくても、非生産的であってもみな幸せに生きていられるわけで、頭がいいことが良いことだという価値観は、世の中で支配的ではありますが無用の長物だと思います。東大で博士号をとっても職がなくて路頭に迷う人がいる一方で、べつに大学にいっていなくても経済的に成功して幸せに暮らしている人がいくらでもいることを見ていると、余計にそう思います。
高校生は自分の(現在の)偏差値で志望大学を決めることが多いみたいですし、教育に関するベストセラーの本にすら偏差値信仰を当然とするような文言が見られるのに誰もそれを気にしていないようです。日本における偏差値信仰の蔓延は恐るべきものがあります。
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学びたい人が学ぶ機会を得ようとすることを学歴ロンダリングだと貶めような風潮が世の一部に(ネット上に?)あるのは嘆かわしいことです。
学歴ロンダリングは当たり前
研究者になるには大学院で良いトレーニングを受ける必要があります。自分の大学の大学院でそのようないい研究室が見当たらなければ、他大学の大学院を探すのは普通のことです。日本で一番研究費をたくさんもらっているのはダントツで東大であり、あとは京大、阪大、東北大などだと思います。そうすると、大学院に進学するときにはそのような大学院に行くのはとても普通のことだと思います。それを学歴ロンダリングと呼ぶのはかなりおかしな話で、学歴ロンダリングという発想自体が、研究の世界には存在しないと思います。あえてその言葉を使うなら、学歴ロンダリングは当たり前のことです。誰だって、大学院時代に成果を挙げられるラボ(大学院)に進学すべきなのです。
東大関係者というより、研究者や博士まで行く人たちの間には学歴ロンダリングという概念がそもそもない。いいラボで博士研究をしないことには先がないのだから、いいラボに行くのは当たり前。いいラボが東大に多い(or研究費が一番潤沢にある)から、多くの人が東大に行くのは自然なこと。 https://t.co/nu1p6H4uS6
— 日本の科学と技術 (@scitechjp) April 18, 2021
参考
- 戦慄の「学歴ロンダリング完全マニュアル」 2020年5月10日 11時15分 プレジデントオンライン livedoor NEWS