研究者にとっての論文十ヶ条

      2020/08/30




「 追悼 角皆静男先生のご逝去を悼む 」(渡辺 豊 地球化学50 巻 (2016) 1 号 (JSTAGE))に掲載されていた「研究者にとっての論文十ヶ条」が非常に心に刺さります。以下、見出しは当サイトがつけたものです。

論文は著者の研究者としての人格そのもの

1.「書かれた論文は書いた人の研究者としての人格を表す」。書かれた論文からその研究者の人となり(人為)がわかってしまう。また,批判の材料にも使われる(日本人はあまり他をほめないが悪口は言う)。恐ろしい。

論文を書いていない人=研究者として存在していない人ということになりましょうか。恐ろしいですね。研究者として生きている証として、論文を書かねばなりません。

ところで、捏造論文ばっかり出して学会の権威にまで上り詰めた人たちの、研究者としての人格って何なんでしょう?ただのハリボテですか。

 

論文を出さない者はテクニシャン

2.「データのみ出して論文を書かない者は,テクニシャンである」。テクニシャンが重要でないといっているのではない。ただ,テクニシャンは研究者でないことを自覚し,研究者としての待遇を要求してはならない。逆に,研究者は研究者の責任を果たさねばならない。

実験データを出しても論文を書かないのはただのテクニシャンというのは、自分にはあまりしっくりきません。実験だけして論文を出さない人は、サボって何もしなかった人よりももっとたちが悪い。なぜなら、研究費を無駄遣いしているから、というのが自分が思うところです。自分の指導教官がいつも言っていたことなのですが。

 

データも論文も出さない者は評論家

3.「データも出さず,論文(原著論文)を書かない者は,評論家である」。これも評論家が不要といっているのではない。ただ,評論家として振る舞うのではなく,研究者として振る舞い,こういう人達に研究費が流れていきがちなのが問題である。

実験データを出さない人は原著論文を書けるわけがないのですが、それを評論家というのも持ち上げすぎな気がします。実験データを出さない人は、実験系の場合は単に研究に向いていない人なんだと思います。まあ、ポジティブな結果がなかなか出せない時期があるというのは、研究者にとってごくごく普通のことなのですが。研究者として生き延びるためには、ないなりに何かしら論文にするという巧みさが必要です。

 

論文執筆は研究者の成長の糧

4.「研究者は論文を書くことによって成長する。また,成長の糧にしなければならない」。投稿し,審査(批判)を受けることで成長する。若い人は没にされる率が特に高い。それで,こっそり黙って投稿する者がいる。むしろ,欧米のように,原稿ができたら,広く配り,周辺の批評を受けたいものである。

自分が初めて論文を書いたときは、実験をストップして100%執筆活動に専念したにもかかわらず、初稿ができあがるまでに3か月以上かかったように記憶してます。慣れてくると、実験しながら書けるところを書いていくので、そのような無駄な時間はなくなりました。論文を書いていると、実験のデザインの甘さが見えてきたり、どれだけ強い結論が引き出せるのかと知恵を絞ったりと、頭が鍛えられる気がします。ちなみに自分が聞いた、できる研究者は論文の初稿を書き上げるのはほんの2~3日だそうです。週末に書いて、週明けには最初のドラフトが出来上がっているんだそう。

 

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論文業績は研究者の飯のタネ

5.「論文は研究者の飯のタネである」。就職,昇進,任期更新,賞,研究費など研究者としての資質が問われる際に第1に問題にされるのが,よい論文を多数という点である。良ければ伸び,悪ければこの社会から締め出される。

これはまさにPublish or perishという言葉そのものでしょう。最近の科学研究の情勢だと、Publish and quitにしかならないように思います。トップジャーナルに論文を出さない限り、なかなか研究者としては生き残れません。

 

後世の研究に影響を与える論文を

6.「論文は後世の研究に影響を与えなければならない」。上で,異分野の研究者(や行政関係者)がまず取り上げるのが,審査のある雑誌に第1著者として書いた論文の数である。雑誌の質やその後の被引用回数も取り上げられる。本当は質であり,どれだけ後世に影響を与えるかである。また,書いても消えてしまうかもしれないが,書いておかなければ影響を与えることはない。

研究者という職業を選んだからには、生きるのが精いっぱいなどというしょうもないことを言っていないで、後世の人に読まれる論文を出したいものです。メンデルの論文などを読んだりすると、論文って時空を超えるんだなあと実感します。

 

書いた論文には責任を

7.「研究者は書いた論文に責任を問われる」。その当時のレベルでは不可避であったことならよいが,間違った論文を書いた責任を取らなくてはならない。作為的ではなく,未熟さ,不勉強で結果的に間違えた場合でも,信用を落とすことになる。

エラーバーを押し下げて有意差があるように見せかけてネイチャーや姉妹紙に出している人たちには説明責任があると思います。もちろん彼らが所属している大学も。

 

実験で得られたわけではない値のグラフを手書きすることは(←ココまでは大学も正式に認めている!)、研究者の常識からすればデータの捏造です。しかし、大学はなぜかそれを研究不正と認めず、このような作業をしている人たちのことを全力で守っています。図はデタラメに作ったけど、データ捏造ではないって、あなたは安倍首相ですか?日本の研究倫理は一体どうなっているのでしょうか?

  1. 医学部研究不正疑惑論文に関する調査報告書を国民に開示しない東京大学
  2. 「ご飯論法」「きな粉餅論法」を日常で使ったらただの無能 (大山くまお 2018.06.29 幻冬舎plus)
  3. 安倍首相が珍答弁 「募っている」けど「募集」ではない (2020年1月28日 19時45分 朝日新聞デジタル

 

「忙しくて論文が書けない」=「私は無能です」

8.「忙しくて論文が書けないというのは,言い訳にはならず,能力がないといっているのと同じである」。本当に価値あることが確実に得られているのなら,論文(の祖型)は一晩で書ける。書けないのは,足りない点があるからであり,書く力も能力のうちである。また。研究のため,教育に時間を割けないこともない。

「私は忙しくて論文がかけないんです。」というのは、「私は研究者として無能なんです。」と言っているようなものと、なかなか厳しいことを言っています。忙しくて論文が書けないという人には、ポール・シルビアさんの本がお勧め。

関連記事 ⇒ Silvia博士 生活を犠牲にしない論文量産術

 

博士論文以降に出した論文で真価が問われる

9.「博士論文以上の論文を書けない者は,その博士論文は指導教官のものといわれても仕方がない」。最近は,博士の研究を論文にする際,当然のようにその学生が第1著者となる。しかし,アイデアから始まって,いろいろな指導を受けての結果であり,その学生の真価,実力はその後でわかるということである。

博士論文がネイチャーでも、ポスドクでもう一本ネイチャーやサイエンスに出さないとなかなか生き残れないご時世です。

 

論文は価値あるアイデアの証

10.「研究において最も重要なのはアイデアであり,それが試されるのが論文である」。実験,調査,観測が主要な分野では,体を動かすことが重視されがちである。アイデアを尊重し,スケールの大きな研究をしたい。これには,技術的なことも含めて協力体制をつくり,資金を手当することも必要となる。

実験科学の世界ではIdea is cheapという言葉があるくらいなので、論文という形にして初めて評価されるのだと思います。

 

論文を書かない研究者はネズミを捕らないネコと同じ

自分がポスドクだったときに、シニアの研究者の人に、論文は1年に1報出さないと研究者として生き残れないよと言われました。1年に一報とは結構厳しいなあと当時思ったものです。それと同じ教えを見つけたので書き記しておきます。

1.研究者は、第1著者の原著論文を1年に1報は必ず書くよう努める。

2.教授になるには、自分の年齢数以上の原著論文を発表し、かつ第1著者の論文数がその年齢の半分を越えること。

3.…

(引用元:論文を書かない研究者は、ネズミを捕らないネコと同じである。1997.3.30 インターネットアーカイブ

 

参考

  1. 研究者にとっての論文十ヶ条(1999.7.17 インターネットアーカイブ
  2. 追悼 角皆静男先生のご逝去を悼む(渡辺 豊 地球化学50 巻 (2016) 1 号  JSTAGE)PDFリンクあり

 - 研究者の評価, 研究力強化