AMEDの公募ってやっぱり出来レースだったの?

自分は文科省科研費しかもらったことがないので、AMEDの実態は全然知りませんが、自分のような完全な部外者であっても、たまに、「AMEDは出しても無駄、どうせ採択される人は決まっているから。」という声を聞くことがあります。

実際のところAMEDは出来レースなのでしょうか?ネット上の情報を纏めてみたいと思います。

AMED公募の出来レース

AMED公募の中に出来レースが含まれていることは、多くの研究者が知るところであることを本庶氏が公の場で指摘していました(「AMEDシンポジウム2019」2019年12月13日の講演)。

 

下のツイートに紙面が紹介されていますが、是非皆さんに読んで頂きたい重要な内容なので文字に書き起こしておきます。

AMEDには批判すべき点が幾つかある。第1の問題は、基礎的な研究に研究資金を出さないところだ。基礎研究は治療薬や技術のシーズを出す部分なので、それを育てることが国にとって重要なはずだ。もし良いシーズが出てくれば、AMEDが資金援助をせずとも、企業が向こうから寄ってきて、応用につながる。だからいいシーズを出すことが一番重要だ。
しかしAMEDは臨床応用が見えなければ採択されない。その一方、科学技術振興機構(JST)に応募しようとすれば、医学関係はAMEDへ応募せよと言われる。医学系の基礎研究を応募する先が現状では抜け落ちている。
 そして、国が大企業にお金を出すのはおかしい。営利目的で事業を行う企業は、いいシーズを選んでその実用化に向けて自らリソースを投入すべきだし、国はアカデミアのシーズを生み出す場所に資金を出すべきだ。だから比重を十分に考えてほしい。
 また、AMED全体を眺めると、細かい公募枠がたくさんある。がんでも何十個あるのか分からないほど細かい。そして多くの人が言っているが、その公募枠の中に細かい指示があって、「これを満たす人はあの人だろう」と、当事者を誰もが予想できるような公募がある。しかも情報リークがあって、事前に公募内容が分かっていたりする。これは断じて許すべきではない。特定のテーマと研究者を採択したいならば、最初から指定しておくべきで、これを公募にすることによって多くの人に無駄なエネルギーを使わせている。絶対に改めるべきだ。
 提案書のボリュームも課題だ。本当に審査委員が全部読んでいるのか。企業との連携内容など細かいことを山のように書かされ、企業とつながっているものは駄目だとか、いったい何なんだと感じる。提案書を出して、採択されて報告書を出したら、ほとんどの人は研究する時間が取れない。もっと簡素化しても十分だろう。(2019年12月13日「AMEDシンポジウム2019」での講演から抜粋 「出来レース」の公募はやめよ 京都大学 本庶 佑 特別教授 日経バイオ年鑑2021より)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

自分は科研費が一番、公平に資金を分配できているのではないかと思います。内閣府のばらまきとか、AMEDとかと比べると、本当に誠実さを感じるのが文科省科研費。下のツイートの意見に大賛成。

 

 

資金配分機関と研究者との癒着の弊害

AMEDと一部の研究者とが癒着していると、AMEDから多額の助成を受けている研究者に対して研究不正疑惑が生じたときに、本来なら研究資金配分機関として情報開示をさせる監督責任があるはずなのに、むしろ隠蔽に走る恐れがあるのではないでしょうか。データ捏造の疑惑を指摘された大学が何の説明責任も果たさないまま、億単位の助成をAMEDから受け続けているのは、自分には異常なことに思えます。

 

参考

  1. 日本版NIHの「真っ黒」な船出(2015年4月号 選択) しかし記念すべき初代理事長になったのは、この三月まで慶應義塾大学医学部長を務めていた末松誠氏だ。