麻生氏は、天皇家とつながりを持って権勢を振るいたいの?

【リプレイ】皇室典範改正案の審議 衆議院・議院運営委員会 ──政治ニュースライブ【2026年7月10日午前】(日テレNEWS LIVE) 日テレNEWS 日テレNEWS チャンネル登録者数 328万人

皇室典範に関する法律が強引に成立させられて、一体、誰が何のために性急にこんなことをしているのか疑問だらけでした。ヤフーニュース「皇室へ養子入り、旧宮家とは?  天皇陛下と共通祖先は室町時代 典範改正案  2026/ 7/12(日) 7:30 時事通信」に、現状が詳解されていました。

  1. 皇室典範改正案には、1947年に皇籍を離脱した旧11宮家の男系男子を養子として皇室に迎える制度が盛り込まれており、養子に男子が生まれた場合、皇位継承資格を持つことになる。
  2. 現在の皇族数は男性5人、女性11人の計16人しかいない。皇位継承資格を持つのは、天皇陛下の弟で皇嗣の秋篠宮さま(60)、その長男の悠仁さま(19)、陛下の叔父の常陸宮さま(90)の3人で、今の天皇陛下の次世代の継承者は悠仁さまだけ。
  3. 旧11宮家は、山階、賀陽、久邇、梨本、朝香、東久邇、竹田、北白川、伏見、閑院、東伏見。このうち、旧4宮家には未婚の男系男子がいる。
  4. 旧宮家と現在の天皇家との共通の男系祖先は約600年前の室町時代、伏見宮貞成親王までさかのぼり、宮内庁の説明によれば36~38親等の隔たりがある。

 

麻生氏が執心する理由がわからないので、グーグル検索で訊いてみました。以下、検索結果すなわちAIによる概要、AIとの対話などのまとめです。途中から興味が、違う方向に行ってしまいました。

 

目次

なぜ麻生氏の名前が登場するのか?

山階、賀陽、久邇、梨本、朝香、東久邇、竹田、北白川、伏見、閑院、東伏見の「旧11宮家」と麻生太郎氏との最大の関係は、実妹の信子さまが旧皇族と深い関わりを持つ三笠宮家に嫁がれていることと、麻生氏自身が皇室典範改正における「旧宮家からの養子案」を主導する中心人物であることです。 [1, 2, 3, 4]
具体的な関係性と経緯は以下の通りです。
  • 血縁関係(妹・信子さまの結婚)
    麻生氏の末妹である信子さまは、1980年に故・三笠宮寬仁(ともひと)親王と結婚されました。寬仁親王は大正天皇の皇孫にあたります。 [2, 5, 6]
  • 三笠宮寬仁親王妃家の当主
    2025年秋、信子さまは三笠宮家から独立し、新たに「三笠宮寬仁親王妃家」を創設して初代当主となられました。 [2, 7]
  • 「旧宮家からの養子」案の主導
    現在、国会で議論されている皇室典範改正案の柱の一つに、「旧11宮家の男系男子を養子として皇室に迎える」案があります。麻生氏は自民党内の「安定的な皇位継承の確保に関する懇談会」の会長として、この旧宮家の養子案に強くこだわり、法案成立を主導しています。 [1, 3, 4, 7, 8]
  • 政治的な波紋
    この改正により、仮に信子さまが養親となって旧宮家から養子を迎え、その養子に男児が生まれた場合、その男児が皇位継承権を持つ可能性が生まれます。このため野田佳彦元首相などからは、「令和は麻生家が天皇家と縁戚関係を深めた藤原家のようになるのではないか」と強い警戒や批判の声もあがっています。 [8, 9, 10, 11]

旧11宮家は、1947年(昭和22年)にGHQの指令や財政難により皇籍離脱した傍系の宮家ですが、現在の麻生一族は、この旧宮家の血筋を引く皇族(三笠宮家)と姻戚関係にあります。 [2, 3, 12, 13]
旧11宮家を巡る皇室典範改正案の詳細や、男系継承に関する国会での議論の最新状況について、さらに知りたい点はありますか?

三笠宮家は、11の旧宮家に含まれていないけど?

結論から言うと、三笠宮家は旧11宮家ではありません。 [1]
三笠宮家は、戦後も皇室にとどまった「直宮家(じきみやけ)」と呼ばれる、天皇に極めて近い血筋の宮家です。 [2]

「旧11宮家」と「三笠宮家」の違い

1947年(昭和22年)の皇籍離脱の際、宮家は以下のように分かれました。
  • 旧11宮家(民間人になった傍系の宮家)
    山階、賀陽、久邇、梨本、朝香、東久邇、竹田、北白川、伏見、閑院、東伏見。
    これらは明治天皇やそれ以前の天皇から分かれた「傍系(遠い血筋)」にあたり、GHQの指令などにより一斉に皇籍を離脱しました。 [2, 3]
  • 皇室に残った宮家(直宮家など)
    昭和天皇の弟君たちの宮家(秩父宮家、高松宮家、三笠宮家)は、昭和天皇に最も近い血筋であったため、皇室に残されました。 [1, 2]

なぜ麻生太郎氏との関係で名前が出るのか?

現在議論されている皇室典範改正案(皇族数確保)において、「旧11宮家の男系男子を、皇族の養子として迎える」という案が出ています。
その養親(受け入れ先)の候補として、現在ある以下の宮家が想定されているためです。 [4]
  1. 常陸宮家
  2. 三笠宮家
  3. 三笠宮寬仁親王妃家(麻生氏の妹・信子さまの宮家)
  4. 高円宮家 [4, 5, 6, 7]

つまり、「旧11宮家(外から戻ってくる側)」の男系男子を、「三笠宮家信子さまの宮家など(現職の皇族側)」が養子として迎え入れるという関係性になるため、セットでニュースや議論に登場しています。 [4]
この養子案の仕組みや、なぜ麻生氏がそこまで関わっているのかについて、さらに知りたい詳細はありますか?

なぜ麻生氏がそこまで関わっているのか?

麻生太郎氏が皇室典範改正、特に「旧宮家からの男系男子の養子案」にこれほど強く関わっている理由は、主に「男系継承を維持するという政治的思想」「自身の強力な政治的立場(キングメーカー)」、そして「皇室との深い私的な血縁関係(閨閥:けいばつ)」という3つの要素が複雑に絡み合っているためです。 [1, 2]
麻生氏が執念とも言えるこだわりを見せる背景には、以下の具体的な要因があります。

1. 保守派としての「男系男子による継承」への強いこだわり

麻生氏は自民党内でも伝統的な価値観を重視する保守派の重鎮です。
世論では「愛子さまを天皇に(女性天皇・女系天皇の容認)」を期待する声が根強くあります。しかし、麻生氏をはじめとする保守派は、神武天皇から一度も途切れていないとされる「男系男子による皇位継承」の伝統を何が何でも守るべきという確固たる思想を持っています。
女性皇族が結婚後も皇室に残る案を容認しつつも、将来の皇位継承資格者を確保するためには、旧宮家の男系男子を皇族に戻す(養子案)以外に道はないという大義名分を背負っています。 [1, 2, 3, 4, 5]

2. 「自民党懇談会会長」という公式な責任者

麻生氏は、岸田文雄前首相から直轄組織として設置された自民党の「安定的な皇位継承の確保に関する懇談会」の初代会長に指名され、法案提出から成立までの実務を主導してきました。
2026年夏の国会での法案成立の際も、麻生氏は「ようやくここまでたどり着いた。何としても成し遂げたい」と並々ならぬ覚悟を周囲に語っており、自身の政治キャリアにおける「最後の大きな仕事」として捉えている側面があります。 [3, 6, 7, 8, 9]

3. 実妹・信子さまを介した「天皇家との圧倒的な近さ」

これが最も大きな関心と議論(時に批判)を呼んでいるポイントです。
麻生氏の母方の祖父は吉田茂元首相、さらに遡れば大久保利通に繋がる日本屈指の「閨閥(政財界・皇室の血縁ネットワーク)」の出身です。
さらに実妹の信子さまが三笠宮寬仁親王と結婚されたことで、麻生一族は皇室と直接的な姻戚関係を持ちました。 [1, 8]
  • 「藤原道長」に例えられる政治的波紋
    政府の改正案では、旧宮家の養子を受け入れる先として「三笠宮寬仁親王妃家(信子さまの宮家)」を含む4つの宮家が想定されています。
    仮に信子さまが旧宮家の男系男子を養子に迎え、その養子に将来男児が生まれた場合、その男児が皇位継承権を持つ可能性が生じます。
    この仕組みを主導したのが麻生氏であるため、野田佳彦元首相らからは、平安時代に娘を天皇に嫁がせて権勢を振るった「藤原道長のように、令和は麻生家が天皇家を差配する時代になるのではないか」と強く警戒され、批判の的となっています。 [1, 6, 10, 11, 12]


まとめると、麻生氏にとっては「皇室の伝統(男系男子)を守る」という大義名分と、「自らの親族(信子さまの宮家)がその受け皿になる」という現実的な制度設計が合致した状態になっています。これが、一政治家の枠を超えて皇室の未来を決める議論を猛烈にリードしている理由です。 [1, 2]

神武天皇から一度も途切れていない?途切れている?

「神武天皇から一度も途切れていない(万世一系)」という主張に対し、「実は途切れているのではないか」という指摘は、歴史学や考古学の視点から非常に多くなされています。
この問題は、「信仰・伝統としての主張(神話・公称)」と、「歴史学・考古学としての事実(客観的検証)」の2つの視点に分けて考えるとすっきりと整理できます。
歴史上、最も「途切れた(王朝が変わった)」と疑われている代表的な3つのポイントを解説します。

1. 最大の疑問:26代「継体(けいたい)天皇」での断絶

歴史学者の間で最も有力な「王朝交替(途切れた)説」が、6世紀初頭の継体天皇の即位です。
  • 何があったのか?
    前任の武烈天皇に後継ぎがいなかったため、福井県や滋賀県を拠点にしていた地方の有力者(男大迹王:をほどのおう)が迎えられ、天皇(当時は大王)になりました。
  • なぜ途切れたと言われるのか?
    歴史書(日本書紀など)では「応神天皇の5世の孫」と説明されていますが、5代も離れていると本当に血が繋がっているか証明が難しく、実際には「全く別の新しい王統(新王朝)が誕生したのではないか」と考えられています。

2. 初期天皇(神武〜開化天皇)の非実在説

そもそも、初代の神武天皇から9代の開化天皇までは、歴史学的には「後から作られた架空の存在(物語上の人物)」である可能性が極めて高いとされています。
  • なぜ途切れたと言われるのか?
    実在が確実視されるのは、早くても10代の崇神(すじん)天皇、または15代の応神(おうじん)天皇、16代の仁徳(にんとく)天皇あたりからです。実在しない人物から始まっている以上、そこからの「一系」は歴史的な事実とは言えません。

3. 南北朝時代(14世紀)の分裂

室町時代、皇室は「持明院統(北朝)」と「大覚寺統(南朝)」の2つに完全に分裂し、それぞれが「自分こそが本物(正統)」だと主張して激しく戦いました。
  • なぜ途切れたと言われるのか?
    最終的に北朝側が勝利し、現在の皇室は北朝の血筋を引いています。しかし、明治時代に政府は「三種の神器を保持していた南朝が正統」と決定しました。つまり、正統な南朝の血筋は途絶え、一度「正統ではない」とされた北朝の血筋が現在の天皇家になっているという矛盾を抱えています。


結論:なぜ「一度も途切れていない」と言い張るのか?

  • 歴史学的な事実
    少なくとも継体天皇(6世紀)以降、現在の皇室まで約1500年間、一度も途切れずに血筋が続いていることは世界的に見ても驚異的な事実です。ただし、神武天皇からは繋がっていません。
  • 麻生氏などの保守派のスタンス
    彼らは歴史学的な実証性よりも、「神話の時代から男系で続いてきたという物語(伝統・正統性)」そのものを重視しています。そのため、歴史的な疑問には触れず、「神武天皇から一度も途切れていない男系男子」という言葉を使い続けています。

皇室の歴史や、これまでの男系・女系の議論について、さらに詳しく知りたい部分はありますか?

Y染色体の挙動にのみ着目すれば、続いている?

はい、その通りです。Y染色体の挙動(男系継承)という視点だけに絞れば、北朝も南朝も同じ一本の線に繋がっているため、途切れずに続いています。
「南朝が正統か、北朝が正統か」という問題は、あくまで「どちらが本家(正統な天皇)か」という政治的・法的な争いであり、血のつながり(遺伝子)が途絶えたわけではありません。
Y染色体の観点からこの関係を整理すると、以下のようになります。

北朝と南朝は「同じおじいちゃん」を持つ従兄弟(いとこ)同士

北朝と南朝に分裂する直前、88代 後嵯峨(ごさが)天皇 という共通の祖先がいました。
  • 後嵯峨天皇の兄の系統 = 持明院統(後の北朝
  • 後嵯峨天皇の弟の系統 = 大覚寺統(後の南朝

つまり、北朝と南朝の天皇たちは、全員が「後嵯峨天皇」という同一の男性からY染色体を受け継いでいます。そのため、どちらの系統が天皇になろうとも、「後嵯峨天皇から男系でつながるY染色体」は一貫して維持され、現在の皇室まで100%引き継がれています。

「正統論の矛盾」と「遺伝子の連続性」の違い

明治政府が「南朝が正統」としたことで生じた矛盾は、あくまで「歴史のハク(正統性)」の引き継ぎ方の矛盾です。
  • 政治・歴史の文脈:「正統な南朝(本家)」が滅び、「非正統な北朝(分家)」が天皇を続けているのは筋が通らない。
  • 生物学(Y染色体)の文脈:本家だろうが分家だろうが、同じ男性(後嵯峨天皇)のY染色体をコピーし続けているため、一本の鎖として完全に繋がっている。

このように、歴史的な「正統・非正統」の議論と、生物学的な「Y染色体の連続性」はまったく別の話であり、ご指摘の通りY染色体に着目すれば何一つ途切れることなく現在に至っています。
この「男系の血筋(Y染色体)さえ繋がっていれば分家でも問題ない」という論理こそが、まさに麻生氏ら保守派が「旧11宮家(数百年前に分かれた超・分家)の男系男子を皇族に戻せば、万世一系は維持できる」と主張する最大の根拠になっています。
このY染色体(男系)の仕組みや、旧11宮家がどれくらい離れた分家なのかなど、さらに気掘り下げたい部分はありますか?

Y染色体が途切れた可能性は、いつ?

Y染色体が「本当に途切れた(別人のものに入れ替わった)」可能性が指摘されるタイミングは、歴史上に大きく分けて3つあります。
科学的なDNA鑑定ができない以上、すべて歴史書や状況証拠からの推測になりますが、可能性が高い順に整理します。

1. 【可能性:高】6世紀初頭:26代「継体(けいたい)天皇」の即位時

歴史学的に、Y染色体が最も高い確率で途切れたとされるのがこのタイミングです。 [1]
  • 何が起きたか:前任の武烈天皇が後継ぎなしで崩御したため、群臣が現在の福井県・滋賀県あたりから「応神天皇の5世の孫」とされる男大迹王(おおどのおう)を連れてきて天皇に据えました。
  • なぜ途切れたと言われるか:「5世の孫」という設定自体が、新しく王になった地方の豪族に正統性をもたせるための「後付けの嘘(創作)」ではないかと疑われています。もし本当に応神天皇の血を引いていなければ、ここで前王朝のY染色体は完全に途絶え、継体天皇のY染色体にすり替わったことになります。 [2]

2. 【可能性:中】14世紀:南北朝時代の「すり替え」や密通の噂

南北朝の動乱期や、その前後のドロドロとした宮廷の権力闘争の中で、「実は密通によって生まれた子が天皇になったのではないか」という密通・不義密通説があります。
  • 代表例(北朝の崇光天皇・後光厳天皇の周辺)
    現在の皇室に繋がる北朝の足利尊氏が支えた系統周辺では、宮廷内での密通の噂が当時の日記(『神皇正統記』や貴族の日記など)に記録として散見されます。
  • なぜ途切れたと言われるか:もし「天皇の子」と公称されつつも、実際には別の貴族や武士との間にできた男児がそのまま即位していた場合、戸籍(系図)上は男系で繋がって見えても、生物学的なY染色体はその時点で密かに途切れていたことになります。

3. 【可能性:低】平安時代初期:55代「文徳(もんとく)天皇」や藤原氏による擁立期

平安時代、藤原氏が天皇家を「外戚(母方の実家)」としてコントロールし始めた時期です。
  • なぜ途切れたと言われるか:藤原氏は自分の娘を次々と天皇に嫁がせ、生まれた男児を若くして天皇に即位させました。この際、「どうしても藤原氏の血を引く天皇を誕生させたい」という強い政治的動機から、血統の操作(密通)があったのではないかと俗説で囁かれることがあります。
  • ただし:この時代はまだ天皇の周囲のガードが非常に厳しく、また仮に藤原氏の娘が別の男性と密通するリスクを冒すメリットが低いため、歴史学的な根拠は薄く、可能性としては低いとされています。


補足:そもそも「神武天皇」の時点

前述の通り、初代・神武天皇から9代・開化天皇までは実在の証明がされていません。そのため、遺伝子レベルで言えば「崇神天皇(10代)または応神天皇(15代)の代に、初代のY染色体(=その家系の初代となる男性の遺伝子)が始まった」と見るのが、歴史科学としての一般的な視点です。
もし「継体天皇は本当に応神天皇の5世の孫だった」と仮定するならば、6世紀(継体天皇)から現在までの約1500年間は、奇跡的に一度もY染色体は途切れずに繋がっているというのが現代の定説です。
これら歴史的な「王朝交替」の謎や、宮廷の裏歴史について、さらに詳しく知りたいポイントはありますか?

「実は密通によって生まれた子が天皇になったのではないか」というのは、正妻がどこかの男と浮気したということ?

はい、ご認識の通りです。「天皇の妃(または側室)が、天皇以外の男性と浮気(密通)をして男の子を産み、それが天皇の子(皇子)として育てられてそのまま即位したのではないか」という意味です。
当時は現代のようなDNA鑑定がありません。そのため、妃が「天皇の子です」と言えば、周囲がどれだけ怪しんでも公式には天皇の子として扱われ、そのまま皇位を継承することが可能でした。
歴史上で特にこの「浮気・すり替え」が噂され、Y染色体の断絶リスクとして議論される有名な2つのケースを解説します。

1. 【一番有名な噂】高倉天皇の母と平清盛の密通説(12世紀)

平安時代末期、80代・高倉天皇(安徳天皇の父親)の誕生を巡る噂です。
  • 誰と誰の噂?:高倉天皇の母親(建春門院・滋子)が、実は最高権力者であった平清盛と密通して生まれた子ではないか、という噂が当時からありました。
  • なぜ噂された?:清盛が高倉天皇を異常なほど特別扱いし、自分の娘(徳子)を嫁がせて次の天皇(安徳天皇)を産ませるなど、平家一族の繁栄に利用したためです。
  • もし本当なら:天皇家ではなく「平清盛(桓武平氏)のY染色体」にここで入れ替わっていたことになります。

2. 【南北朝の闇】北朝・崇光天皇周辺の噂(14世紀)

まさに先ほど登場した南北朝時代、足利幕府が擁立した北朝の宮廷内での噂です。
  • どんな状況?:当時は南朝と北朝が激しく争っており、北朝の宮廷内は権力闘争と足利家への忖度でドロドロでした。当時の貴族の日記には、公家や武士が宮中の女性たちと密かに通じていた生々しい記録が多く残っています。
  • もし本当なら:この動乱期に生まれた北朝の天皇の誰かが「実は足利一族の誰かの子」や「有力公家の子」だった場合、系図の上では天皇家ですが、Y染色体は完全に別の家系のものにすり替わっていたことになります。


なぜ当時は浮気が可能だったのか?(通い婚の背景)

平安時代から室町時代にかけて、貴族や皇族の結婚は男性が女性の家に通う「通い婚(かよいこん)」や、複数の側室を持つのが普通でした。
天皇がいつも同じ部屋に一緒にいるわけではないため、警備の目を盗んで別の男性(近臣の公家や、宮中を警護する武士など)が女性の寝所に忍び込む「密通」が起こる隙は十分にありました。
もちろん、これらはあくまで「噂」や「状況証拠」であり、歴史的な真実かどうかは証明できません。しかし、こうした「人間の男女の生々しい裏切り」が一度でもあれば、見た目の家系図は繋がっていても、生物学的なY染色体(男系)は一発で途切れてしまうというのが、この継承制度の最大の弱点と言えます。
この宮廷のドロドロした人間関係や、当時の婚姻制度の仕組みについて、さらに詳しく知りたい情報はありますか?

宮廷のドロドロした人間関係を記した、歴史的な書物は何?

宮廷のリアルな人間関係や不倫の噂は、『大鏡』や『とわずがたり』などの歴史物語・自伝で描写されており、多くの図書館で現代語訳を閲覧できます。特に後深草院二条の『とわずがたり』は、鎌倉時代の宮廷における複雑な恋愛模様や不倫、秘密の関係を生々しく綴った「元祖暴露本」として知られています。また、南北朝時代の公家・洞院公賢による日記『園太暦』にも、皇子の真の父親を巡る疑念や密通の噂が記録されています。
角川ソフィア文庫や講談社学術文庫など、文庫化されている『とわずがたり』の現代語訳が図書館で容易に探せます。

手ほどきを誰が誰に何ついて受けたの?それと、娘へ執心するロジックは?

これは鎌倉時代の宮廷の、きわめてドロドロとした(現代の感覚からするとかなり衝撃的な)男女関係のロジックです。
結論から言うと、「後深草院は、自分の初体験の相手(大納言典侍)の面影を、その娘である二条に重ね合わせて執着した」という、強烈なマザコン的・初恋拗らせ(こじらせ)のロジックです。
主語と目的語を補って、この関係性とロジックを分かりやすく分解します。

1. 誰が、誰に、何の手ほどきを受けたのか?

  • 受けた人後深草院(まだ幼い・若い頃の天皇)
  • 手ほどきした人大納言典侍(だいなごんのすけ:二条の母親)
  • 何について:「新枕(にいまくら)」、つまり男女の性愛・初体験の手ほどきです。

当時、幼い皇太子や若い天皇が初めて女性を知る(初体験を迎える)際、宮廷の年上のベテラン女房(教育係)がその「お相手(手ほどき役)」を務める文化がありました。後深草院にとって、二条の母親である大納言典侍は、自分に夜の営みを教えてくれた官能的な忘れられない女性だったのです。

2. 「娘(二条)への執心」との関係とロジック

ここからが後深草院の複雑な心理(ロジック)です。
  1. 母親への未練:後深草院は、自分を大人の男にしてくれた大納言典侍(二条の母)を深く愛していましたが、彼女は若くして亡くなってしまいます。
  2. 娘の登場:その後、大納言典侍が遺した娘(二条)が、幼くして宮廷に引き取られ、後深草院の身の回りの世話をするようになります。
  3. 面影の重ね合わせ(ロジック):二条が成長するにつれ、後深草院は彼女の中に「かつて自分に性愛を教えてくれた最愛の母親(大納言典侍)」の面影を強く見るようになります。
  4. 執着と略奪:後深草院は「あの愛しい女性の娘なのだから、この娘も私のものだ」という歪んだ独占欲を抱き、二条が14歳になった夜、彼女を力ずくで我が物(愛人)にしました。

つまり、後深草院にとって二条への執着は、「かつて自分を男にしてくれた忘れられない女性(母親)への情熱を、そのDNAを引く娘にスライドさせて爆発させたもの」というロジックになります。

この『とわずがたり』の冒頭では、14歳の二条が、父親のような年齢の後深草院から突然襲われ、涙ながらに処女を奪われる生々しいシーンから物語が始まります。
この事件のあとも、宮廷内ではさらなるドロドロの愛憎劇が続きますが、この「後深草院と二条の関係」について、さらに詳しく知りたいエピソードはありますか?

とはずがたり

https://ja.wikipedia.org/wiki/とはずがたり

  1. 『とはずがたり』(とわずがたり)は、鎌倉時代の中後期、後深草院二条という女性が実体験を綴ったという形式で書かれた、日記文学および紀行文学。
  2. タ問はず語りとも表記され[2][3]、「(他人に)問われなくても話し出してしまう語り」の意。
  3. 、後深草院に仕えた女房(女性の側近)である二条の数え14歳(文永8年/1271年)から数え49歳(嘉元4年/1306年)ごろまでの境遇、後深草院や恋人との関係、宮中行事、尼となってから出かけた旅の記録などが綴られている。
  4. 宮廷における愛欲を暴露した内容(暴露本)であり、ほとんど無名のまま宮廷で秘書・禁書の扱いを受けてきた[6]。

とわずがたり』の冒頭

『とはずがたり』の冒頭は、宮廷の華やかな情景と作者・二条の出仕を描いた美しい文章から始まります

【原文(冒頭部分)】
「呉竹(くれたけ)の一夜(ひとよ)に春の立つ霞(かすみ)、今朝しも待ち出で顔に、花を折り、匂ひを争ひて並み居(ゐ)たれば、我も人並みにさし出でたり。」

【現代語訳】
「呉竹が一夜のうちに春を迎えるように、元旦の霞が立った今朝、それを待ちかねていたかのように、女房たちが着飾り、梅の花を折って美しさを競い合って並んで座っているので、私も人並みに(後深草院の御所に)お目見えしたのです。」

 

後深草院との新枕

これはどうしたことかと思い、すぐに起きて出て行こうとした。すると、その方は私を起きられないようになさって、幼かった昔に私のことをいとしいとお思いになってから、十四歳になるまで待ちながら過ごしてきた月日をあれこれと、書き続けられそうな言葉もないほどお話になる。けれども、耳にも入らず、ただ泣くよりほかになく、あの方の袂も乾いたところがないほど涙で濡らしてしまった。御所さまは私を慰めようもなく、それでも手荒くお振舞いになることはなかった。(とはずがたり 現代語訳 巻一1~6 讃岐屋一蔵の古典翻訳ブログ  より)

  1. #1 ヤバすぎて禁書扱い!?薄幸美女の宮廷暴露本『とはずがたり』  マリナデシコ 2023年10月25日 22:38
  2. とはずがたり 作者 いがらしゆみこ 出版社ユミコミックス