日本の科学と技術

本庶佑 京都大学名誉教授・特別教授のノーベル賞受賞記者会見【動画&書き起こし】

2018年10月1日18:30(日本時間)のノーベル生理学医学賞受賞者発表を受けて19:20~20:20に京都大学で開催された本庶佑博士の受賞記者会見ですが、研究者を志す人にとって非常に示唆に富む内容でした。

記者会見はニコ生で放送されましたが、率直な受け答えにあらわれる本庶佑博士の人柄に感銘を受けたニコ生視聴者も多かったことが、画面をリアルタイムで流れる多数のコメントからわかります。

 

【ノーベル賞受賞】本庶佑 京都大学名誉教授 記者会見

記者会見日時:2018年10月1日19:20~20:20

ノーベル医学生理学賞に京大・本庶氏 午後7時20分から会見(2018年10月1日)(THE PAGE)

以下、YOUTUBE(THE PAGE)の動画の書き起こしです。

* 質問者はマイク不使用だったため記者の質問はあまり聞き取れていません。太字強調部分は当サイトの主観によります。

(06:06~)この度はノーベル医学生理学賞、いただくことになりまして大変名誉なことだと喜んでおります。これはひとえに、長いこと苦労してきました共同研究者、学生諸君、また、さまざまな形で応援して下さった方々、また、長い間支えてくれました家族、本当に言い尽くせない多くの人に感謝いたしております。1992年のPD-1の発見とそれに続く極めて基礎的な研究が、新しいがん免疫療法として臨床に応用され、そして、たまにではありますが、この治療法によって重い病気から回復して元気になった、あなたのおかげだと言われる時があると、本当に私としては自分の研究がほんとに意味があったということを実感し何よりも嬉しく思っております。そのうえにこのような賞をいただき大変、私は幸運な人間だというふうに思っております。今後この免疫療法がこれまで以上に多くのがん患者を救うことになるように、一層、私自身ももうしばらく研究を続けたいと思いますし、世界中の多くの研究者がそういう目標に向かって努力を重ねておりますので、この治療法がさらに発展するようになると期待しております。また、今回の基礎的な研究から臨床につながるような発展ということで授賞できたことによりまして、基礎医学分野の発展がいっそう加速し、基礎研究に関わる多くの研究者を勇気付けるということになれば私としてはまさに望外の喜びでございます。

(質疑応答 Q&A 10:05~)

ノーベル賞受賞の吉報を受けたときの状況

Q:受賞の連絡とそのときの気持ちを教えてください。

A:(10:21~)確か5時前後だったかと思いますけども。電話でノーベル財団の私の知っている先生から電話がありました。それはちょっと突然でしたので大変驚きました。ちょうと私の部屋で若い人たちと論文の構成について議論している時でしたので、まさに思いがけない電話でありました。勿論大変嬉しく思いましたしたけども、また、大変驚きました。

A(11:18)その時の学生さんたちからはどういった反応がありましたでしょうか?

Q(11:23)そのうちの1人は後で直接話を聞ける茶本 健司(ちゃもと けんじ)君という、准教授をしてる人で、もうひとりはポスドクの人でしたけども、二人とも大変驚いてやや興奮している様子でした。だから、茶本先生に直接聞いていただいたほうがわかると思います。

 

免疫療法に関して

A(11:55) がん免疫療法についてですが、今後どのような治療法として発展させていきたいとお考えでしょうか?

Q:12:04 この治療は例え話としては感染症におけるペニシリンというふうな段階でありますから、ますます、これが、効果が広い人に及び、また、効かない人がなぜ効かないかといった研究が必要です。また、そういうことが、世界中の人がやっていますから、いずれは解決されて、感染症がほぼ大きな脅威でなくなったと同しような日が、遅くとも今世紀中には訪れるというふうに思っております。

Q(12:57 NHK)受賞されて受賞の報告というのは誰かに伝えましたでしょうか?

A(13:09)もちろんこれは家族、それから教室関係の人、等々には連絡を致しました。

Q(13:23) どのようなお言葉で報告をされたんでしょうか?また、どのようなお返事があったのでしょうか?

A(13:25) たくさんの人にね、いろんなその、相手によって報告の仕方は違いますけども、思いがけないことでしたので、そういう趣旨の話を致しました。

Q(13:45) ご家族からはどのようなお返事があったのでしょうか?

A(13:48) 基本的に、おめでとう、うれしいという話です。

 

研究の心がけ

Q(13:58) あと一点、ご自身で研究で心がけていること、また、モットーなどはありますでしょうか?

A(14:01)研究に関しては、わたし自身はですね、研究ってのはやっぱり自分に何か知りたいという好奇心があると。それから、もうひとつは、簡単に信じない。だから、よくマスコミの人は、ネイチャー、サイエンスに出てるからどうだ、という話をされるけども、僕はいつも、ネイチャー、サイエンスに出てるものの9割はウソで、10年経ったら、まあ、残って1割だというふうに言ってますし、だいたいそうだと思ってますから。まず、論文とか書いてあることを信じない、自分の目で、確信ができるまでやる、それが僕のサイエンスに対する基本的なやりかた、つまり、自分の頭で考えて納得できるまでやるということです。

Q(15:10) それが受賞に結びついたと考えておられる?

A(15:13) それはねぇ、賞というのは人が決めることで、それは、賞を出すところによっては考え方がいろいろ違うし、一言でいうとねわたしは幸運な人間で。まずPD-1を見つけたときも、これガンになるとは思えなかったし。それを研究していく過程で、近くに、今ここでおられる湊先生のようながん免疫の専門家がいて、私のような免疫学も素人、がんも素人という人間を非常に正しい方向へ導いてい頂いた、いうふうなこともあり、それ以外にもたくさんの幸運があってこういう受賞につながったと思ってます。

確信の芽生え

Q(16:19 読売新聞)2点お伺いしたいんですけれども、がん研究の独自の〔聞き取り不能〕となるような体験がもしおありでしたらお聞かせていただきたいと、お伺いします。

A(16:38)PD-1の研究でいうならば最初のこれががんに効くということを確信できる実験というのは、当時大学院生だったと思いますけども岩井佳子(いわいよしこ)さんという人にやってもらった、PD-1遺伝子が欠失したネズミを使って、がんの増殖が正常なネズミと差が出るかどうかということをやったと。それが私はよかったと思います。というのは、抗体で実験してて効かなかったら、ひょっとしたら諦めていたかもしれない。というのは、抗体にはいい抗体と悪い抗体と、たくさんありまして、それはやってみないとわからない。しかし遺伝子が無い場合はそれはもう関係ないので、これは必ず効くということを確信できたので、それがやはり大きな転機になったと思います。

神戸医療産業都市推進機構について

Q(17:57)これまで深く関わってこられた神戸医療産業都市の発展につながるのではないかという関係者空の声もあります。医療産業都市への思いだったり、関係者へのメッセージをお願い致します。

A(18:17) 神戸医療産業都市は、構想から20年になるということでまもなく記念の行事も行なわれますし私としても推進機構の理事長としてようやく体制が整った神戸の地から新たな応用への展開が生まれてくる、そういうシーズと実際のアプリケーションとが結びつく場として大きく育ってほしいと期待しておりますし、そういうことに向けて今回の受賞が少しでもプラスに働ければ私としては大変嬉しいと思っております。

 

日本の科学行政における研究費の配分のやりかたに関して

Q(19:18) 昨今の〔〕、また製薬企業についてどういうふうにお考えになっているか。

A(19:52)生命科学というのはですね、まだ私たちはどういうふうなデザインになっているかということを十分まだ理解していないのです。AIとかロケットをあげるというのはそれなりのデザインがあって、ある目標に向かって明確なプロジェクトを組むことが出来ますが、生命科学というのは、ほとんど何もわかっていないところでデザインを組むこと自身が非常に難しい。そういう中で応用だけやると、大きな問題が生じるとわたしは思っております。つまり、何が正しいのか何が重要なのかわからいところで、この山に向かってみんなで攻めようということはナンセンスで、多くの人に、できるだけたくさんの山を踏破して、そこに何があるかということをまず理解したうえで、どの山が本当に重要な山かということを調べる、まだそいういう段階だと思いますから、あまり応用をやるんではなくて、なるべくたくさん、僕はもうちょっとばら撒くべきだと思います。ただばら撒き方も限度があってね、1億円を1億人にバラ撒くと全て無駄になりますが、1億円を1人の人にあげるんではなくて、せめて10人にやって、十(とう)くらいの可能性を追求したほうが一つに賭けるよりは、ライフサイエンスというのは非常に期待が持てると思います。もっともっとたくさんの人にチャンスを与えるべきだと思います。特に若い人には。

 

製薬企業について

製薬企業に関してはね、まあ日本の製薬企業は非常に大きな問題を、僕は、抱えていると思います。それはまず、数多すぎますね。世界中、メイジャーというのは、まあ20とか30なんですが、我が国では一国だけで、創薬をやっているという企業だけで30以上あると。これ、どう考えても資本規模、それから、あらゆる国際的なマネジメント、研究で非常に劣る、と。なおかつ日本のアカデミアには結構いいシーズがあるのに、日本のアカデミアよりは外国の研究所にお金をたくさん出していると。これは全く見る目がないと言わざるを得ないと思います。

 

研究者になるために一番重要なこと

Q(22:55) 〔…です。〕私どもは読者が小学生ですので、こういった先生の受賞を機会に、自分も科学者になろうという小学生がいると思うんですけれども、これだけは思っていて、科学者を目指して欲しいというものを教えていただければ。

A(23:16)そういうことがあれば非常に嬉しいと思いますけども。研究者になるということにおいて一番重要なのはやはり何か知りたいという、思うというか、不思議だなという心をね大切すると。それから、教科書に書いてあることを信じない、と常に疑いを持って、ほんとはどうなってるんだという心を大切にする、そういう、つまり自分の目でものを見る、そして納得する、そこまで諦めない、とそういう若い、小中学生が研究の道に志して欲しいと思います。

 

医学のこころ

Q(24:11)いくつか質問をお願いいたします。基礎研究を臨床のほうにつなぐためのメンタルというかコツみたいなものがもしおありでしたら教えていただけたら。

A(24:43) 基礎研究をやってますけども私自身は医学を志しています。ですからやはり常に何かの可能性としてこれが病気の治療とか診断とかに繋がらないかということは常に考えております。ですから自分の好奇心と、さらにその発展として社会への貢献ということは、わたしの研究の過程では常に考えてきました。ですから、そういう意味で、新しい発見を特許化したりですね、そういう応用への手順と言いますか、そういうことは非常に早い段階からいろんな局面でやってましたので、突然、PD-1は繋がりましたけども、私の研究マインドとしては基礎研究をしっかりやってもし可能性があればそれを社会に還元したいという気持ちは常にありました。

研究者としての幸せ

Q(25:51)ノーベル賞候補といわれてきて、今回の受賞は待ちに待ったものなのか、長かったなあというものなのか、まあこんなものだというものなのか、そのあたりは。

A(26:11)さっきも申し上げましたけども、賞というのはそれぞれの団体とか、それぞれの価値基準で決められることなので、長いとか待ったとかそういうことは僕自身はあまり感じてません。自分の研究としてはね、さきほどちょっと申し上げましたけども、僕はゴルフが好きなんでゴルフ場にしょっちゅう行きますけども、ゴルフ場に来ているメンバーの人がね、ある日突然やってきて、顔は知っていたけどもあまり知らない人が、「あんたの薬のおかげで、自分はもう肺がんで、これが最後のラウンドやと思っていたのが、良くなってね、またゴルフできるんや」、とそういう話をされるとね、これ以上の幸せはない。つまりそれは自分の人生としてね、生きてきて、やってきて、自分の生きた存在としてこれほど嬉しいことはない。これはまあ僕は正直言って何の賞をもらうとかいうことよりも、もうそれで十分だと、自分はそう思っています。

共同受賞について思うこと

Q(27:30) 共同受賞の 今回二人での共同受賞になったことについて思うところがあればお聞かせください。

A(27:40) これは極めて妥当だというか、彼とは非常に古い交流がありますし、彼の研究と僕の研究とは、これも幸運としか言いようがないんですが、非常に違う局面で、現在はお互いに2つの抗体を組み合わせることによってより強い効果がでるということが知られてますから、ノーベル財団の評価でもそのことをかなり詳しく説明してましたから、僕自身としてはベストな組み合わせであると思ってます。

Q(28:30) つまりがんの治療は今世紀中には〔…〕ハリソンさんの業績と先生のご研究をあわせることでそれが確かなものになるであろうと?

A(28:44) いや、それは違います。それを組み合わせて、従来単剤だったものより、より良くなるケースもあります。しかしまだまだ非常に低いレベルのがんもあるし、それからわりかし効きにくいがん種もありまし。ですから、まだまだ発展途上です。ペニシリンがわかった段階でね、感染症に対して非常に楽観的な展望が出たわけじゃなくて、肺炎とか限られた感染症に対しては有効でしたけども、結核とかですね、いろんなことに関しては全然展望がなかったわけです。

Q(29:26) 終わりの始まりといいますか?

A(29:34)そうです。

 

小野薬品との関係

Q(29:44 産経新聞) 製薬会社とのかかわりについて伺いたいと思います。小野薬品さんとの提携について。

A(30:04) 提携というのはね、これは会社同士の話で、僕は学者ですからね、僕は事業をやってるわけではないので、小野薬品との関係は、特許に関して、ライセンスを小野薬品に与えるという関係です。

大学と製薬企業との望ましい関係

Q(30:33) 企業が利益を大学に還元される仕組みが必要だとおっしゃっていましたがそれに関してはいかがでしょうか?

A(30:41) それはそうだと思います。わたしは小野薬品も含めてね、アカデミア…、この研究は、研究自身に関して小野薬品は全く貢献していません。それはもうはっきりしてます。でその特許に関してライセンスを受けてるわけですからそれに関して十分なリターンを大学に入れてもらいたいと思っています。そのことによってまた次のね、わたしはもうそれを使って新たな研究をするというよりは、わたしの希望としては次のジェネレーションが京都大学でそのリターンをもとにした基金でエンカレッジされてそれでもういっぺん育っていくと、そん中からまた新しいシーズが生まれると。でそれが、日本の製薬企業にそういう形で再び還っていくと。そういう良いWIN-WINの関係をつくるということが望ましいということで小野薬品にも長くお願いしているわけです。

 

神戸での研究

Q(32:09) がんだけでなくさまざまな疾患への応用が期待できるかと思うんですが、そのあたり今後の発展についていかがお考えでしょうか?

A(32:23) 免疫のブレーキ役であります、PD-1は。従って現在は免疫を活性化するためにそのブレーキを外すという形で医薬品としてこれが使われているわけですが。逆にブブレーキをかけるようにする、PD-1の本来の役割を強化する方向で使うことも十分に考えられます。これに関しては現在、主として私は神戸のほうで、先ほどちょっと話がありました、元、財団、今、振興機構と言っております、そこで研究室を持ってそこで研究を進めております。

 

大きな壁

Q(33:25〕ここに至るまでにもし大きな挫折があったとすれば、どんな挫折だったか、また、それを乗り越えられた、あきらめなかったという点があれば教えてください。

A(33:40)挫折しなかったからここまで来たんですけども。非常に大きな壁にぶつかったということはあります。それはですね、わたしたちが、〔電話の呼び出し音〕ちょっと、ひょっとしたら安倍さんから電話かもしれないので。

(34:09~35:44 安倍首相から電話で質疑応答は中断)

Q(35:44 ) 挫折はないけれども大きな壁はあった、と?

A(35:51) それはですね。わたしたちは2002年に動物モデルで、これでガンが治るという論文を出しました。勿論特許も出したんでその話もしたけれども、そのあと実際にこれを臨床に応用したい、私はかなり楽観的に考えていたんですが、もちろんそれになりますと大学の研究室では不可能でして、パートナーとしての企業が必要なんです。で小野薬品にやらないか?と言ったんです。その当時はまだ小野薬品にライセンスはしていませんで、特許の出願に関して手伝ってもらった。でまず小野薬品に声掛けたら、「やらない」と、「自分のところはがんの経験もないし、そんな効くか効かないかわからないようなものに大金を投ずることはできない。それで、ただ、自分たちよりも大きな会社に声を掛けて、共同研究できないかを検討する」ということで、小野薬品は武田薬品から始まってですね日本の大手を、外資もいたと思いますけども、1年くらいかかって訪問して共同研究の申し込みをしたんですが、全部に断られたということで僕のところに来ましてね、これだけの会社に相談に行ったけどもダメだったし自分のところも単独では出来ないから降りるということでした。で僕は、「では、いい」と、自分がこれをやるからアメリカの、僕らはその当時、アメリカの研究者が自分で会社をたくさん作ってたんですね、ベンチャー、いわゆるベンチャーを。ですからその友人に相談に行って、「こういう形で特許も出しているし、やりたいと思う」って言ったら、まあその、研究者ですけれども会社もやってる。一時間くらい話たらもう「是非やろう」と。ただ一つ条件として、小野薬品がもう権利を放棄すると、もうやらないという確約をもらってくれ、と。これは企業としては当たり前の事なんで、日本に帰ってきて小野薬品にそう言ったら、社長に会ったわけではなくてその時は担当した重役だったか、部長だったか、「ちょっと、待ってくれ」と言われて待ってたんですが、それからね多分三月(みつき)くらいして突如として「やる」と言ってきたんですね。でそれは僕は結構なので、じゃあ小野薬品にやってもらおうと。でそれは何故小野薬品が急に変わったかというとまあこれは後で聞いた話ですけれども、現在ブリストル・マイヤーのバイスプレジデントになってる、当時メダレックスのヘッドだった、あー、メダレックスというのはヒューマナイズドアンタイボディを作る特許をとっていた、技術を持っていた。で、彼が、それは今回受賞したジム・アリソンの抗体も彼らが作ったんですね。ブリストル・マイヤーに今買収されていますけれども。彼らのほうがちょうど一年半、特許が公開されるんです。それを見て、向こうのほうから小野薬品に共同研究を申し込んだということで、急に話が行ったと。だからその、1年ちょっとぐらい、全く企業パートナーが見つからなかって、「もういよいよこれは自分の全財産を投げ打ってでも、アメリカのベンチャーと開発しなきゃいけないかな」というときはやっぱり一番の壁でした。

Q(39:55) 投げ打ってでも続けたいと思うその原動力?

A(39:59) いや、もともと財産無いから投げ打つ言うても知れてます。

 

京大医学部同級生の早すぎる死

Q(40:10) 過去のインタビューの中で〔…〕もう少し詳しく〔…〕

A(40:28)ガンで同級生がね、非常に若くして在学中で、いわゆるスキルス性のガンで速かったんですよ、あっというまに死んでしまってね。その男は父親と、親ひとり子ひとり、お母さんが早くなくなってね、非常に優秀な男だったけれども、非常に気の毒であって。それは、我々の同級生、医学部の学生ってのは人数少ないですから、みんな良く知ってて、僕だけじゃなくて多くの同級生がそれを非常に残念だというふうに感じて、なかなか忘れられない思い出だったと思います。

Q(41:30)何年生のときにどれくらいの期間で?

A(41:31) それは正確に何年生か覚えていないんだけども、医学部に入って、教養ではなくて。医学部は教養2年医学部4年なんです。その真ん中へんだったと思います。終わりのほうではなくてね。もうほぼね、2年くらいの間に、見つかってから亡くなったと思うんですよ。

Q(42:03)亡くなった瞬間てどのように思われたんですか?

A(42:03)もうそれはやっぱりガンというのはすごいなというかね大変な病気だと。そういうことに少しでも貢献できればいいなと、当時はかすかに思ったことは思いましたけども、まあしかしそれはまあ誰でも思うことですけどね。

Q(42:36) 具体的に〔…〕

A(42:36) ま、だから結局ね、そういういろんなことが積み重なって、自分の心の中に何かあったら、そういう大変な病気に役立つようなことにつながることがあればいいなと、まあ医学部で医学教育を人間というのは誰でもそう心が常にある。で僕それが重要だと思うんですね。やはり生命科学でも〔電話の呼び出し音〕趣味でやる研究ってのもあります。でそれはまあそれでいいんですけどね。

(文部科学大臣からの電話で記者会見が中断)〔「もしもしわたくし文部科学大臣主管室のありばやしと申しますが、お世話になっております。〕

(43:31~~44:53 待機メロディー

(44:55 「もしもし?」「ほんじょです」「ああ、先生、おめでとうございました。」「ありがとうございます」「いやあもう」〔45:05~ …無音…〕

 

A.(46:43 記者会見再開)なんだったけ?質問忘れてしまった。さっき質問途中だったね。それで?

Q(46:51) 〔…〕どのような方で?

A(47:00)えーっとね、しもえ君といったっと思うんだけどね。どのような方って、どういうことを聞きたいの?

Q(47:13)優秀な?

A(47:13)優秀な学生でしたよ。京大の学生全部優秀だけれども。質問の意味がよくわかんない。

Q(47:23)人柄とか。

A(47:30) 人柄はね、まあちょっと変わってるといえば変わってたよ。だけども非常にシャープな男でね。父さんはねぇ、工学部でどっか大学の教授だったと思うけども。ともかく親1人子1人だからすごくかわいがってね。時々お父さんが来て、息子のことを宜しく頼むと、僕は楽友(らくゆう)会館でごちそうになったり、そういうこともあったりね。なかなかそれは忘れられないですね。

 

早石修先生の教え

Q(48:19 産経新聞)先生は早石先生の研究室で学ばれていらっしゃって。早石先生の研究室で印象に残っている教えとですね、あと、お亡くなりになっておられるんですけども、生きておらたらどうご報告したいか?

A(48:58)早石先生は戦後長いことアメリカで研究をされて京大に帰ってこられて日本の生化学の新しいページを開かれた、基礎をつくられて、そこで若い人が新しいことを学びたい、全国から集まってきて、その中で私もいろいろ揉まれて、文化勲章をもらわれただけでも西塚泰美(にしづかやすとみ)先生、それから僕と同級生ですけども中西重忠(なかしにしげただ)とか、まあたくさんの業績を挙げたお弟子さんを育てていただきました。わたし自身もやはり早石先生の教室に入って、振り返ってみると何が一番大きな影響があったかというと、サイエンスというのは国際的なレベルで語らない限り意味がないと、つまり、国際的に自分の研究がどういう位置にいるかということを常に考えていない研究は自己満足になるということが一番の、若いときのね、大きな基礎であったと思います。早石先生もノーベル賞候補だと言われたわけですし、多分早石先生もそういうことがあるかもしれないというふうに思われていたという口ぶりで僕に語れたこともありますから、僕もそういう意味では早石先生にもし生きておられたらこういう結果になりましたということでお礼を言いたいというふうに思っております。

 

10年以上ノーベル有力候補と言われ続けて

Q(51:06 NHK) 本庶先生といいますと10年以上前からノーベル賞候補候補とメディア等で騒がれてきたんですけど、どういうふうに捉えられていたわけでしょうか。

A(51:27)正直言ってね僕はメディアの人と違ってやることがいっぱいあるので、この日がどうだということをそれほど自分でですね意識することはほとんどありませんでした。ですからいつどういうふうな形でそれが発表されるかということも知らなかったので、5時ぐらいに電話がかかった時は、「今年は誰なのかなあ」と思ってたら電話かかってきたと。で福井さんという秘書さんが「せんせ、せんせ、電話です」と飛んで来たので、さっきも言ったように、論文の推敲をしてるときにそういう話だったので、まあ少しビックリしたというということはあります。

Q(52:27) そうすると今朝も普段とかわらずに?

A(52:30) 正直言って、今日僕はマッサージにいかなきゃいけないので自分でクルマを運転してきて、今日帰りどうするんだと高等研の事務官の人に叱られたんですけども。ですからその時点では完全に忘れてました。

Q(52:58) さらにお忙しくなると思うんですけれども今一番したいことっていうのは何でしょうか?

A(53:11) 僕が一番したいことはエイジシューティングです。エイジシュートって知らない人もいるかもしれないけど。(以下、割愛)

 

研究に対する厳しさ

Q(54:00) 先生は非常に厳しいと

A(57:26) 厳しいというのはね、僕も他の人と自分とを比べてないからわかんないけども、何に対して厳しいのか、真実に対して厳しいのは当たり前でね、間違いでないかどうかということをやはり厳しく問う、それから、何が真実かと、僕は常にずっと、研究では常に世界の人と戦ってきたつもりですからね、戦うときはやはり厳しくないと戦えないですよ。

 

今後の研究

Q(55:08)〔…〕
A(56:02)京大で今やっていることは、ついでだから、僕は京都大学に感謝の意を表したいと思うんだけども、僕が幸運だという理由は、七十何歳になってね高等研究院という制度を作っていただいて、私もういっぺん再雇用していただいた。そいでスペースもいただいて、企業から寄付もいただいて、これは小野薬品寄附講座というのですけれども、そういういい環境を与えてもらって、そこでまだ続けているのは、PD-1抗体が、先ほども申し上げたように、限界が今の段階ではあります。それで全ての人が治るわけではない。もう少し効果を上げるような。大部分の人は何らかをプラスアルファして、これをよりよく効くようにしようという研究をしております。私もそういう方向でやっておりますけれども、他の人たちはちょっと違う視点からやっています。それから、効く効かないをできるだけ早く見極めるマーカーを探す、まあそういうことを1つ、それから神戸のほうでは先ほど申し上げたように、ブレーキを効かすような、えー抗体には常に2種類あるんですけれども、いわゆる阻害抗体と、促進抗体、2種類ありますから、それをふりわけてうまく使うことによってアレルギーとか自己免疫病の治療をできる可能性があるということでやっています。

それから、林さんとはね、何で縁があるかというと、林さんのお母さん、こんな話していいのかな?(笑)ま、簡単に言うと彼は山口が選挙区で、僕は高等学校は宇部高校。多分あなた聞いたことない、山口県の宇部市というところの高校の出身で、それでご縁があるということで、前からよく存じているということであります

 

研究における失敗について

Q(58:55〕失敗について
A(59:27)あのね、その言葉を間違えてほしくないんだけれども、実験の失敗は山ほどあります。しかし、大きな流れがね、ずっと進んでて、こうだと思ってたら断崖絶壁で下に落ちてしまったという類のものはこれまでなかったということを申し上げました。それは崖に行くまでに気付かなきゃいけない。それは、いろんなことをたくさんやってれば、サイエンスではね、段々と積み上がっていくんです。積みあがっていくのが、箸の端と箸をこういうふなつなぎ方をすると(手振りで、左手の小指をたててその指先に、拡げた右手の親指の先を載せて)これは、危ない。だからこの間にたくさんの(身振りでつなぎ目の部分を指して)、こう、互い違いにいっぱい箸をつないでいくことによって、その道が正しいかどうかということがわかって、そういうことを申し上げたんです。

 

参考

  1. 獲得免疫の驚くべき幸運 本庶 佑 京都賞(PDF)
  2. 本庶研メンバー
  3. 小野薬品工業株式会社とブリストル・マイヤーズ スクイブ社 腫瘍免疫について日本、韓国、台湾における戦略的提携契約を締結(プレスリリース 2014/07/24

参考(報道)

  1. 「真実に厳しいのは当たり前」 ノーベル賞本庶氏会見速報④京都新聞 2018年10月01日 22時10分)Q 学生から厳しい先生といわれる。 A 他の人に比べていないから分からないが、真実に厳しいのは当たり前。研究では世界の人と戦ってきた。厳しくないと戦えない。
  2. (社説)本庶さん受賞 基礎の大切さ示す快挙(2018年10月2日05時00分 社説 朝日新聞DIGITAL外科手術、抗がん剤、放射線という従来のがん治療法に加え、「免疫療法」という新たな道を切り開いたことが評価された。… 本庶さんが発見した「PD―1」と呼ばれる分子は、がんが免疫細胞からの攻撃を逃れるカギとなるたんぱく質だ。 このPD―1の働きを抑えれば、より効率的にがん細胞をたたけるのではないか――。そんな発想をもとに14年に承認された薬オプジーボは、もちろん患者によって効果の有無や程度に違いはあるが、多くの人の命を救い、生活を支えている。 本庶さんがホームページで公開している「独創的研究への近道:オンリーワンをめざせ」と題したエッセーからは、ほとばしる情熱が伝わってくる。
  3. 本庶佑京大特別教授にノーベル医学生理学賞 子供時代はガキ大将も「人の役に立ちたい」SANSPO.COM 2018.10.2 05:03) 本庶氏の研究チームは1992年、異物を攻撃する免疫細胞の表面で働くタンパク質「PD1」を発見。その後、このタンパク質は免疫細胞が暴走を防ぐために備えている“ブレーキ”であることも解明した。がん細胞はこのブレーキを勝手にかけ自分への攻撃を止めるが、人為的にブレーキを利かなくすれば、がんの排除が可能になる。 この原理に基づき、本庶氏らが小野薬品工業(大阪市)と開発したオプジーボは免疫チェックポイント阻害剤と呼ばれ、2014年に皮膚がんの薬として発売。肺、腎臓、胃などのがんへ対象を拡大され、一部の患者は長期生存が可能になった。年間1000万円以上かかる超高額な薬としても話題になった。
  4. ノーベル賞 本庶さん がんで友失い、道究め毎日新聞2018年10月1日 22時02分 最終更新 10月2日 00時53分) 本庶さんは1989年から98年まで弘前大(青森県弘前市)医学部で教授を務めた。同大によると、脳神経疾患研究施設の遺伝子工学部門で、遺伝子研究や実験への助言指導などを行った。
  5. 本庶佑氏 ゴルフも“研究熱心”屈指の腕前 子どものころの夢は天文学者 高校時代は演劇部 本庶佑氏が医学生理学賞受賞スポニチ 2018年10月2日)米国で30歳から始めた趣味のゴルフの腕前も絶品。会見でも「エージシュート(年齢以下のスコア)で76を出したい」と真剣に語った。筋トレや週末のゴルフは欠かさず、自宅でも毎晩素振りやパターの練習を怠らない。… 山口県宇部市で過ごした少年時代は望遠鏡で土星の輪を見たり、伝記を読むのが好きだった。小学校卒業時の夢は天文学者。演劇部にも所属した宇部高では、外交官や弁護士など、将来の夢を悩んだ末に、医者だった父と同じ道を志し京大医学部に進学した。 米国で研究生活を送るも、家族が受けた差別に不安を感じ帰国を決意。日本発で質の高い研究をしようとバネに変えた。当時は珍しい37歳の若さで大阪大の教授になりマスコミからも注目の的に。
  6. 本庶佑氏にノーベル医学生理学賞 オプジーボ開発でがん免疫療法革命中日新聞 2018年10月2日 朝刊)アリソンさんは一九九五年、免疫の主役の一つで白血球の一種であるT細胞の活動を抑える「CTLA-4」というタンパク質が、T細胞の表面についていることを発見。本庶さんは九八年、別の「PD-1」というタンパク質がT細胞を止めることを発見した。二つはいわば免疫にブレーキをかけるスイッチだ。がん細胞はこのスイッチを押してT細胞の攻撃を免れていた。
  7. 「何だこいつは」偶然の発見 好奇心と執念で実用化 本庶佑さんノーベル賞産経新聞 ITmedia NEWS 2018年10月02日 07時19分)きっかけは大学院生の提案だった。本庶研究室に在籍していた石田靖雅さん(57)=現奈良先端科学技術大学院大准教授=が、新たな研究テーマを本庶さんに持ちかけた。「細胞死に関わる遺伝子を探したい」 細胞死は「アポトーシス」とも呼ばれ、遺伝情報に基づいて細胞が自ら死んでいく不思議な現象で、生命科学の重要分野の一つだった。 石田さんは、免疫細胞の一種であるT細胞が自殺するときに働く遺伝子を見つけようと毎晩、実験を繰り返した。平成3年9月、ある遺伝子を突き止め、その塩基配列を調べて驚いた。 「何だこいつは」 全く新しい配列で正体は見当もつかず、急いで本庶さんに報告した。この遺伝子が作るタンパク質を、細胞死(プログラムド・セル・デス)との関連を期待して「PD-1」と名付けた。翌年、本庶さんらと共同で論文を発表。だが細胞死とは無関係なことが約2年後に分かり、その機能は謎として残った。… PD-1の正体を明らかにするため、まずこの物質を作る遺伝子を欠損させたマウスを作製してみたが、症状は何も出なかった。… マウスの系統を変えて実験したところ、免疫反応が強まり、人の自己免疫疾患によく似た症状が現れた。この物質を持っていないと免疫が強まるということから、この物質が免疫を抑えるブレーキ役として働いていることを突き止めた。… 26年に小野薬品から「オプジーボ」の商品名で発売された。PD-1の発見から実に20年が過ぎていた。
  8. 「一言で言えばスーパーマン」「アイデアも行動力も」 教え子が語る本庶佑さん産経ニュース 2018.10.1 21:17)ノーベル医学・生理学賞に輝いた京都大特別教授の本庶佑(ほんじょ・たすく)さん(76)の研究・開発姿勢について、教え子の日本医科大教授の岩井佳子さんは「すごく粘り強い方。本庶先生の信念によって、あのお薬は生まれました」と明かす。 岩井さんは平成10年に大学院生として本庶研究室入り。「PD-1という面白いタンパク質があるんだよ」と言われて研究を始めた。大所帯の中、PD-1のグループは2人だけで「すごく自由に研究をさせていただいた」。
  9. 本庶氏、妥協許さず厳しい指導 「疑問にこだわれ」口癖 日本経済新聞 2018/10/1 21:54)科学者に贈られる至高の賞に輝いた本庶佑さんは「疑問にこだわれ」が口癖。… 父や叔父、祖父も医師で京都大医学部に進む。入学後、遺伝子組み換え技術の可能性を示した「生物学の革命」(柴谷篤弘著)に刺激を受けて研究者の道を志した。学部生時代から、日本の生化学を切り開いた京大の早石修博士の研究室に出入りし、研究者としての基礎を学んだ。研究では厳しい指導でも知られた。「とにかく厳しい。弟子はみな『一日も早く辞めたい』と思っていた」。大阪大大学院教授の仲野徹さん(61)は、京大医学部で本庶さんの助手を務めていた25年ほど前を振り返って笑う。本庶さんの口癖は「Stick to the question!(疑問にこだわれ)」。他人の理論に注意を向けるのではなく、自分自身が設定した問題に集中するように口酸っぱく説いたという。「とにかく一つ一つの事象を厳しくチェックされる。社会のためになる研究かどうかを追求し、求められるレベルも非常に高かった」 研究を離れると厳しさとは違った一面も。「面倒見がよく、弟子から慕われる存在だった」(仲野さん)京大の研究室で指導を受けた奈良先端科学技術大学院大准教授の石田靖雅さんも「極めて才能豊かで重要な部分を指摘してもらった。研究に対する集中力は爆発的で、すごいエネルギーだ」と振り返る。妥協を許さず指導する姿が印象的だったという。
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